渇きの夜診
診療所を囲むネオンが一つ、また一つと消え、町の輪郭が夜の底へ沈んでいく。
昼間は患者の声で満ちていた待合室も、いまは金属椅子の冷えと、消毒液の匂いだけを残して静まり返っていた。
明子は受付カウンターの端に置かれたカルテの束を揃え、最後の蛍光灯を落とした。白い光が薄れた瞬間、廊下の奥にある診察室だけが、まだ眠り損ねた部屋のように淡く浮かび上がる。
背後でパソコンを閉じる音がした。結奈がカーディガンの袖を引きながら、翌日の予約表に目を落とす。
「お母さん、明日10時に健太さんの健診があります。一般の健診セットです」
「ええ。準備しておくわ」
健太――結奈の婚約者。
その名前を耳にしただけで、明子の指先がカルテの角に止まった。
正式な挨拶に訪れた日のことを、いまも鮮明に覚えている。玄関先で深く頭を下げたときの広い肩。スーツの上からでも分かる厚い胸板。差し出された手の温度。そして、こちらをまっすぐに見つめる、若い男に特有の無防備な眼差し。
結奈の隣に立つ彼を、明子は母親として穏やかな微笑で迎えた。そのはずだった。けれど、あの日から、彼の身体の輪郭だけが記憶の底に残り続けている。
明日は、その身体を自分の目で測る。
身長と体重を確認し、診察台へ横たわらせ、腹部に探触子を滑らせる。ほかの検査は看護師に任せればいい。だが、それらだけは自分で行うと、予約を受けたときから決めていた。
医師として必要な手順にすぎない。
そう言い聞かせるほど、胸の奥に沈めていた別の理由が、輪郭を持って浮かび上がった。
夫との暮らしは平穏だった。
夫は会社員で、毎朝七時には家を出る。帰宅するのは、決まって終電の頃だった。朝は慌ただしい挨拶だけで別れ、夜は疲れ切った顔をわずかに合わせる。互いを責める言葉もなく、生活は整い、休日の食卓にはいつも同じ温度の会話が並んだ。
けれど、身体だけが置き去りにされていた。
触れられない年月は、乾いた布のように心の奥で擦れ続けている。何も起こらないからこそ、火種は消えなかった。胸の底で燻り、ときおり思い出したように熱を持つ。
結奈が帰り支度を終え、バッグを肩へ掛けた。
「じゃあ、先に帰るね」
「ええ。気をつけて」
ドアベルが短く鳴り、外の夜風が一度だけ受付へ入り込む。娘の足音が遠ざかり、やがて完全な静寂が戻ってきた。
それでも明子は、すぐには動かなかった。
受付の時計が秒を刻んでいる。夫が帰宅するまで、まだ何時間もある。急いで帰ったところで、暗い家と、二人分には広すぎる食卓が待っているだけだった。
明子は診察室へ戻った。
超音波装置のモニターは黒いまま沈黙している。明日、あの診察台に健太が横たわる。薄い診察着の下に隠された身体を見て、身長計の前で背筋を伸ばす彼の姿を間近にする。腹部へ温めたジェルを垂らし、探触子を肌の上に滑らせる。
医師として、必要な手順を淡々とこなす。
それだけで終わらせるべきだった。
(終わらせられる?)
問いは白衣の内側へ落ち、答えを待たずに熱へ変わった。
明子はスツールへ腰を下ろした。膝を揃えたまま、指先だけがスカートの裾に触れる。冷房の空気が太腿を撫で、薄いストッキング越しの肌が粟立った。
下腹部の奥で、長く閉じていた水門がわずかに緩む。
(明日、あの人に触れる。結奈の婚約者に。医師の手で、母親の顔をしたまま)
乳首がブラウスの内側で硬くなった。白衣の胸元を内側から押す小さな尖りに気づいた瞬間、羞恥より先に欲望が勝った。
明子は息を殺し、スカートの裾から手を差し入れる。ストッキングと下着越しに触れただけで、身体は待ち構えていたように震えた。
「……だめ」
声は叱責ではなく、願いに近かった。
止めなければならない。そう思いながら、指は下着の内側へ入り込む。ラビアに触れた途端、すでに滲んでいた愛液が指先へ絡んだ。
――くちゅ。
小さな濡れ音が、静まり返った診察室に落ちる。
明子は肩を震わせ、クリトリスを探り当てた。指の腹で円を描くように撫でると、腰がわずかに浮く。身体の奥に溜まっていた渇きが、触れた場所から目を覚ましていった。
健太の名を考えまいとするほど、彼の姿は鮮明になる。
広い肩。若い体温。明日、自分の指示に従って計測器の上へ立つ姿。診察台に身を預け、自分の手を受け入れる顔。
明子は指を膣口へ押し当てた。濡れた粘膜が迎え入れ、ひと節ぶん沈んだところで目を閉じる。
胸の奥では、母親としての自分が引き返せと囁いていた。その声を、女としての身体が静かに飲み込んでいく。
(明日だけ。健診だけ。何も起こさない)
そう言い聞かせながら、指はさらに深く入った。膣壁が収縮し、熱い疼きが背骨を駆け上がる。
逝きたい。
けれど、いま果ててしまえば、明日の平静まで失う気がした。明子は奥歯を噛み、指の動きを止める。
受付の時計が刻む秒針の音が、やけに大きく聞こえた。
やがて明子は濡れた指を抜き、乱れた呼吸を整えながら白衣の裾を握りしめた。愛液の残る指先から、体温と罪の匂いが立ち上がる。
(明日、私はどちらの顔で彼を迎えるの)
答えは出なかった。
診察室の灯りを消すと、非常灯の緑だけが闇に浮かぶ。明子はその明かりに背を向け、まだ収まらない疼きを抱いたまま、夜の廊下を歩き出した。